モーツァルト 交響曲 第25番 K.183

ピアノ演奏 管弦楽曲・協奏曲・弦楽曲

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モーツァルトは35年の生涯に交響曲を50曲ほど作曲していますが、交響曲の中では短調の曲はこの25番とシルビー・バルタンが歌って世界的に大ヒットした「悲しみのシンフォニー」の原曲となった40番の2曲だけです。

この交響曲第25番はモーツァルトが17歳の時(1773年)の作品で、その意欲が全曲に溢れた名曲だと思います。この年齢で25番目の交響曲というのですから驚きです。

モーツァルト 交響曲 第25番



モーツァルトの生涯

父親のレオポルト・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストで、その子供として1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。父は息子が天才であることを見出し幼少時から音楽教育をした成果もあって、3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲され、11歳ごろの作曲譜も発見された。

1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教の命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月にその大司教と衝突し解雇されザルツブルクを出てそのままウィーンでの定住を決意する。その後はフリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。

1786年5月1日、オペラ「フィガロの結婚」K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットした。翌年の8月10日、ウィーンで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を、10月には、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を作曲し、自らの指揮で初演する。12月には宮廷音楽家に任命される。

1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなり、9月には体調を崩して12月5日、35年の生涯を閉じた。

作品はオペラ、教会用の宗教音楽、歌曲などの声楽曲と、交響曲、協奏曲、室内楽曲などの器楽曲まで多岐にわたりその総数は900曲以上にもなります。

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