作曲者:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)
作曲年:1773年
完成:1773年10月5日、ザルツブルク
モーツァルトの《交響曲 第25番 ト短調 K.183》は、1773年、17歳のモーツァルトによって作曲された作品です。自筆譜には1773年10月5日の日付が記されており、ザルツブルクで完成されたことが分かっています。
この作品は、モーツァルトが作曲した交響曲の中でも特に情熱的で緊張感の強い作品として知られています。モーツァルトが生涯に作曲した短調の交響曲は2曲しかなく、本作はその最初の作品です。もう一つは、15年後の1788年に作曲された有名な《交響曲 第40番 ト短調 K.550》です。
第1楽章は、冒頭から激しく切迫したリズムと旋律が現れ、明るく優雅なモーツァルトという一般的なイメージとは異なる、若々しい情熱と不安を感じさせます。第2楽章では一転して穏やかな表情を見せ、第3楽章のメヌエットでは再び緊張感が高まり、終楽章では激しい動きが最後まで続きます。
この作品には、当時のドイツ・オーストリアで広がっていた「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」と呼ばれる音楽的傾向が感じられます。これは、強い感情表現や激しい対比を重視する作風です。モーツァルトはこの時期、ハイドンなどの作品からも影響を受けながら、独自の表現を深めていました。特にハイドンの《交響曲 第39番 ト短調》との類似性が指摘されており、4本のホルンを用いる編成にも共通点があります。
17歳という若さでありながら、単なる「神童」の作品にとどまらず、強いドラマ性と緻密な構成を備えていることが、この交響曲の大きな魅力です。モーツァルトの初期交響曲の中でも特に重要な作品の一つであり、後年の《交響曲 第40番》へとつながる、彼の劇的な表現を知るうえでも興味深い作品です。
モーツァルト 交響曲 第25番
なお、この交響曲の第1楽章冒頭は、ミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』でも印象的に使用されたことで、クラシック音楽に詳しくない人にも広く知られるようになりました。
モーツァルトの生涯
父親のレオポルト・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストで、その子供として1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。父は息子が天才であることを見出し幼少時から音楽教育をした成果もあって、3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲され、11歳ごろの作曲譜も発見された。
父親のレオポルト・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストで、その子供として1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。父は息子が天才であることを見出し幼少時から音楽教育をした成果もあって、3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲され、11歳ごろの作曲譜も発見された。
1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教の命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月にその大司教と衝突し解雇されザルツブルクを出てそのままウィーンでの定住を決意する。その後はフリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。
1786年5月1日、オペラ「フィガロの結婚」K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットした。翌年の8月10日、ウィーンで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を、10月には、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を作曲し、自らの指揮で初演する。12月には宮廷音楽家に任命される。
1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなり、9月には体調を崩して12月5日、35年の生涯を閉じた。
作品はオペラ、教会用の宗教音楽、歌曲などの声楽曲と、交響曲、協奏曲、室内楽曲などの器楽曲まで多岐にわたりその総数は900曲以上にもなります。

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